読み書きソロバンの効率
仕事にしても趣味にしても、それが読み書きソロバンを必要とするものなら、パソコンを使った方が圧倒的に効率的だ。効率だけで語るのはおかしいという声も聞こえてきそうだ。それもわかる。
たとえば文章を読む行為。それをパソコンを使ってすれば、何度も何度も読み込んで、その背後にある意図をくみとるようなことも、一回読むだけで大丈夫かもしれない。いや、極端には一回も読まなくても、AIが読解して、その要旨を伝えてくれる可能性もある。人間が自分で読むにしても、一回読んだだけで、あとは、キーワードを検索したりすることで、目的の箇所に素早くたどり着ける。これは膨大な蔵書を書棚に抱え込んでいるだけでは無理だ。つまり、パソコンを使えば、多角的にデジタル蔵書を活かすことができる。
たとえば文章を書く行為。次から次へと浮かんでくるフレーズを書き留めるのに、ペンと紙では追いつかないような場合も、パソコンのキーボードを使うことで、少なくとも倍以上の速度で書くことができるかもしれない。
もちろん得られる効率に対して失うものもそれなりにある。たとえばぼくは本を購入するという行為を電子書籍に置き換えて久しいが、新刊本を手にしたときのあの紙とインクの匂いの香しさとは無縁になってしまったし、手に取ろうとする気にさせる装丁も楽しめない。
あらゆる書籍はほぼ同じ版面で目に飛び込んでくる。違うのは縦書きか横書きかくらいだろうか。実際にはそれも自由になる。文字サイズ、フォントはもちろん、行間もページの余白も自由にできるし、ページあたりの文字量も自在だ。すべての書物を自分好みの体裁で読むので、過去に読み終わっている書物のイメージが頭に残らない。頭に残っているのは内容だけだ。あの本のあのあたりの右上あたりに書いてあったあの言葉的な印象が全然ない。それにパソコンとスマホとタブレットと専用リーダーなど、時と場所に応じて複数の異なる機器を持ち替えながら一冊の本を読み勧めるのが普通なので、それぞれでもイメージは微妙に異なる。
好きなことをずっと続ける
それでもぼく自身はそれでいいと思っている。あとどのくらい生きられるかわからないが、少なくとも、視力や体力の点で紙の書物を読むのが難しくなったとしても、電子の本であればずっと読み続けることができるだろうからだ。今だって文庫本を読むのはすでにつらい。もしかしたら、パソコンが本を読んで聞かせてくれるのにたよらなければならなくなるかもしれない。でも、読みたい本を楽しむという行為を続けられるのだから幸せだ。この時代に生きていられることをラッキーだと思いたい。
とにもかくにも今の時代の読み書きはそんな具合だ。いいとか悪いという判断をくだすにはまだ早いだろう。でも、そのことをわかった上で読み書きソロバンの方法を極めることは大事だ。この先、書物を書くのが人間だけとは限らない。それに書物が文字でできているというのも過去の話になるかもしれない。そんな未来を考えると、あまりにもおもしろそうで、まだまだ死ぬわけにはいかない。