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2021/02/23

フォルダーの限界


 パソコンでの作業においてフォルダーによるデータ整理は基本中の基本だ。だが、データが多様化するにつれて、その限界も見えてきた。

ファイルの置き場としてのフォルダー

 フォルダーはファイルの整理のための方便だ。パソコンで扱うデータがファイルを中心に構成されていた時代には、これほど便利な存在はなかったといえる。

 ところが今はどうか。ぼくらが参照する情報はファイルに完結しているとは限らない。その在処ひとつとっても、ローカルストレージではなく、クラウドにあったりする。しかも、クラウド上でひとつのファイルにまとめられているのではなく、複数のファイルの集合体がひとつのページとして見せられている場合もある。要するにそれは一般のウェブページだ。ウェブページは、無数のファイルの集合体であり、それがひとつにまとめられているにすぎない。

 

開いて見なければわからないファイルの中身

 フォルダーの限界は、その中にファイルしか置けない点にある。あるプロジェクトを始めようと、アイディアをまとめて置いておく場所を確保するにあたっては、通常の場合、専用のフォルダーを作って、そこに関連情報を集めていきたいと思う。

 ところが、関連情報がローカルファイルであるとは限らない。ウェブページのURLかもしれないし、クラウドで公開されているファイルかもしれない。また、自分でファイルを作成するにしても、それは文字列だったり、写真だったり、動画だったりする。もちろんワープロアプリやプレゼンデータなどの複合ファイルであることも多い。

 そして、それぞれをファイルにできたとしても、そのファイルの素性は、ファイルを開いてみるまでわからない。ファイルを表示する並び順にしても、完全に自由にはならず、いくつかの項目をキーに並び替えができるにすぎない。

 その不便を回避するために、readmeとか読んでねといったファイルを作ったりもした。ファイル名の先頭に「_(アンダーバー)」などの記号をつけたり、もっとも無難で並び順の早い文字列として数字の0を冠してファイル名をつけたりもするわけだが、それでも限界がある。とにかくファイルの数が増えてきたときに、そのファイルがどんな内容なのかが一目瞭然になる方法がないのだ。しいていえば、中身のわかるファイル名をきちんとつけることくらいだろうか。

 知識の置き場として、本当にこれでいいのだろうか。