ファイルのアイデンティティ
データの入れものとしてのファイルではあるが、どうもその感覚が薄れつつある。ウェブアプリでは、ブラウザの中でアプリを開き、いきなり中身を作り始めることができることが多いのだが、それを保存するという感覚がほぼない。いつの間にか保存されているといったイメージだ。ただ、こうして作った成果については、ファイルに見えるようにして一覧できるようになっている。スマホで使うアプリも同様だ。
こうした見せ方は、わかりやすいからそうなっているだけで、本当のファイルの実体がどうなっているかとは別だ。もしかしたら何百というファイルも、その素性としてはひとつのファイルの一部である可能性もある。ファイルとして見せた方がわかりやすいからそうなっているだけかもしれないのだ。
そんな時代に、ぼくらはどうファイルと向き合えばいいのだろう。
ファイルの新しい当たり前
やっかいなのは、今の時代、シンプルなファイルと、ファイルのような何かが混在しているところだ。それはデータのカタマリの見せ方に過ぎないのだ。
この古くさい見せ方が、どうして連綿と使われ続けているのかというと、それは人が慣れ親しんでいるからだ。キャビネットがあって、バインダーがあって、書類を束ねる事務作業は、本当に長く慣れ親しまれてきた。パソコンが個人で使えるようになる前からずっとだ。パソコンのような新しい道具が登場したときに、ディスクとフォルダーとファイルを以前の事務作業と同じ感覚で使えるようにするにはどうすればいいのかを考えたら、今のかたちになったということにすぎない。
でも今、ファイルはデータの入れものではあるが、ファイルの入れ物でもあり、そのファイルは世界中のいろんなところに分散して保存されている可能性がある。それらを瞬時に寄せ集めてまとめ、ページとしてみせているのがウェブだったりする。ウェブではファイルはページのパーツといえるかもしれない。
あらゆるものを埋め込んだ複合文書としてのファイルが、この先も一般的なもので有り続けるかどうかは不透明だ。